何故、こうしたアルバムが生まれてしまったかと言うとラジオである。
去年の10月から半年間にわたって、ニッポン放送で「オールナイトニッポン・デラックス」という2時間のナマ放送が組まれた。出演者は、吉田拓郎、ねのね、泉谷しげる、松山千春という顔ぶれで、ラインナップの基準は、曾て「オールナイトニッポン」で一斉を風靡した“オールナイト卒業生”或いは、“オールナイトニッポン伝説の当事者たち”というものだった。まあ、それはそれで良いのだけれど、泉谷しげるの水曜日放送分というのは、何とも振るっていて、「若い奴等は聴くな」という勝手極まりないへそ曲がり番組だった。
でも、そうやって言われると反って、聴きたくなるのが人情で、実は、泉谷自身、案外それを狙ったのかもしれないと推測したくなるくらいに“若い奴”が聴いていたのである。主たる聴取者は、当然30代なのだが、40代とその子供、20代という具合に、広がって、泉谷が「聴くな」と言えば言う程、若い奴が増えるという妙な番組になった。
で、エレックである。その番組の中のコーナーとして生まれたのが「エレックレコードカムバック」だった。
エレックの音源は、決して、良い形で残されているとは言えない。未だにCD化されていない作品も少なくないのではないだろうか。そんな現状に、なんらかの寂しさや郷愁を感じている人が多かったのだろう、思いがけない反応が集まった。実家の倉庫にこんなアルバムが眠っている、友人があんなアルバムを持っている、主人が大切に保存している。そんな手紙が寄せられた。番組の中で、エレックの音源をスタジオに持ち寄って、泉谷がサインするとか、“お宝”自慢しあって参加者が値を付けるとか、口上付きDJ大会をやろうとか、様々なアイデアが出た中で、実現したのが、この復刻シリーズだった。そういう意味では、最もオーソドックスな着地を迎えたと言って良いだろう。
再評価と言うと大げさかもしれないが、こうした復刻がラジオから生まれたというのは偶然ではないだろう。元々、エレックの誕生自体がラジオとは切っても切れないものだったからだ。
エレックレコードの設立は69年の4月である。最初のレコードは、文化放送のDJ、土居まさるの4曲入りのコンパクトLPだった。レコード会社と言っても普通の店頭流通ではなく、通信販売としてだった。元々、作詞作曲の通信講座の組織として発足したという経緯から、そうなった。後に吉田拓郎のプロデューサーとしても業績を残す浅沼勇が、土居の大学の先輩だったという関係から始まっていた。
70年代には、重要な3つのインディーズのレコード会社があった。URC、ベルウッド、そしてエレックである。関西フォークの拠点として、硬派なメッセージソングを多く生んできたのがURCで、東京のシティー・ミュージックの原形を作り出したのがベルウッドだとしたら、若者文化として10代に広く親しまれたのがエレックだった。そのメディアが深夜放送を主体にしたラジオだった。
エレックのレコード会社としての第1号シングルは、土居まさるの「カレンダー」だった。深夜放送が、昼間のラジオやテレビとは違う“若者文化の解放区”とされた時代である。深夜放送のパーソナリティーが歌う歌。それは、従来の演歌や歌謡曲とは違うテイストになったのも必然だったのかもしれない。
残念ながらここには収録されていないが、エレックの最初のアルバムは、広島フォーク村のオムニバス「古い船を今、動かせるのは古い水夫じゃないだろう」だった。上智大学の学生運動の流れを組む集団が販売に関わるなど、当時の東京の若者文化とは近い距離にあったと言えるだろう。そのアルバムに収められていたのが吉田拓郎(当時の表記は
よしだたくろう)のデビュー曲「イメージの詩」。改めてレコーディングされた「イメージの詩」が、純粋なアーティストを擁するレコード会社としての発足だった。
単独アーティストの第1号LPは、吉田拓郎の「青春の詩」である。1970年10月の事だ。でも、当時、レコード会社として如何に手工業的だったかというのは、吉田拓郎が、よく口にするエピソードが象徴的だろう。まだ印税というシステムも知らなかった彼は、月給制で、その頃の学生の初任給の3倍の給料を貰い、1万円札10枚をカーテンに止め、1枚づつ使っていたという。自分のレコードを梱包し、車でレコード店に配達もしていたというのである。まさにインディーズだった。
エレックレコードが、今でもどこか郷愁めいた響きを感じさせるのは、そんなアマチュアぽさも見逃せないだろう。芸能界や歌謡界とは違う親しみやすさや親近感。今で言うそんな“レーベル・イメージ”に欠かせなかったのがラジオだった。吉田拓郎は、深夜放送全局制覇というキャリアを残している。
エレックの黄金時代は72年、73年になると言って良いだろう。その火付け役になったのが泉谷しげるだった。71年の秋に、エレックは、アーティスト発掘のための「唄の市」というイベントを開始する。それに同調したのがニッポン放送だった。日比谷の野音で行われる「唄の市」は、番組と連動し、当時の野音のコンサートの中では異例の盛り上がりを示す事になる。そこで衝撃的な登場をしたのが泉谷しげるだった。いきなり“乱入”して「戦争小唄」をシャウトするというお目見えは、語り草になっている。彼も奔放な話っぷりで、深夜放送の人気者になった。無名時代のビートたけしが、泉谷のトークを聞いて参考にしていたという話もある。
エレックには、いくつかのシリーズがあった。中心は、吉田拓郎、泉谷しげる、古井戸が、ラインナップされていたELEC-2000シリーズになる。1枚目から6枚目までは、吉田拓郎が3枚、泉谷が2枚、古井戸が1枚という並びだった。佐藤公彦(ケメ)、生田敬太郎、海援隊、ピピ&コット、丸山圭子、とみたいちろう、佐渡山豊、カメカメ合唱団、中沢厚子、竜とかおる、などがリリースされた。後期の75年に始まったELEC-1からのシリーズには山崎ハコ、北炭生、つボイノリオらがいた。泉谷、古井戸、佐藤公彦、とみたいちろうらは、両方にまたがっている。
そうしたフォーク、ニューミュージック路線とは、ややニュアンスの違うポップス路線が、“愛レーベル”と言われたシリーズである。まりちゃんズ、ずうとるび、ここには収録されていないが、あおい輝彦、レモンパイ、ベルなどのアイドル色の強いシリーズだった。杉本エマは、中南米の音楽を出すという“グローバルレーベル”から出ていた。そんな個性的なレーベルの中に大滝詠一の“ナイアガラレーベル”があった。
この「エレック・アンソロジー」は、そんな多岐に渡ったエレックの全貌を伝えるには丁度良いのではないだろうか。早々とメジャーレコードのソニーに移籍してしまった吉田拓郎の後、エレックの中心人物だった泉谷、アイドル・フォークのケメこと佐藤公彦、渋めなフォーク&ロックを聞かせた生田敬太郎、“沖縄のたくろう”を狙った、“沖縄フォーク村”の中心、佐渡山豊、北海道のメッセージシンガー、北炭生、「母に捧げるバラード」の博多弁で大ヒットした海援隊。山崎ハコは、今で言えばCOCCO的存在のフォークシンガー。彼女は大分出身だった。そういう意味では、エレックは後の“地方の時代”を先取りしていたのだろう。東京出身の丸山圭子やピピ&コットは、洗練されたセンスが持ち味だった。丸山圭子が「どうぞこのまま」の大ヒットを飛ばすのは、この4年後になる。
ソロアーティストとしてリリースこそしてないが、当時、エレックのアルバムでセッションミュージシャンとして参加していたのがCHARである。とみたいちろうや生田敬太郎のアルバムでは、10代だったCHARのプレイも聞ける。
貴重な音源になるのは、山口冨士夫だろう。まさしく伝説中の伝説、70年代のロックバンドならではの過激さや無頼さをほしいままにした村八分は、結局、73年のエレックからのライブアルバムしか残されていない。山口冨士夫は、村八分のギタリストである。カメカメ合唱団は、ニッポン放送のアナウンサーだった、カメ&アンコーのギャグ&ポップスとも言えるアルバム。後に、小林克也が始める「スネークマンショー」の原形と言って良い。竜とかおるのかおるは、後に、「ラブ・イズ・オーバー」の作家としても名を残している。なぎらけんいちの「悲惨な戦い」は、一度URCで出たものをシングル化した。放送禁止の名曲とは、これを言うのだろう。名古屋のDJ、つボイノリオの「金太の大冒険」もまさにそれだ。
エレックの路線は、URCや、ベルウッドに比べ、驚くほどに広い。フォークやロック、ポップスだけでなく野坂昭如、美輪明宏、秋吉久美子らのアルバムも出している。そんな幅広さが経営を傾かせた原因である事は間違いない。なにしろ、経営的な最大のダメージは、74年に出た徳川夢声の朗読する宮本武蔵だったというのだから、何を考えていたんだろうという疑問は消えない。エレックの倒産は、70年代の若者文化における謎の1つと言っても良いかもしれない。
この後、オリジナルアルバムの再発CD化という企画もあるのだそうだ。そうした音源に光を当てるだけではなく、何故、エレックが、そうした結末を迎えてしまったかを知りたいと思うのは、僕だけだろうか。 (黒沢進編「資料日本ポピュラー史研究・初期フォークレーベル編」参考) |